懐かしの小学校はそのままでした【関西・長崎旅行記(05)】 [旅行・乗り物]
「消滅した家人旧宅と小学校時代の家の跡【関西・長崎旅行記(04)】」から続きます。
長崎駅前のホテルからバスで移動し、家人の旧宅付近から、幼稚園~小学校前半に住んでいた家付近へ。
借家の大家さんらしき家を確認した後、坂道・階段をどんどん降りていきます。
当時の通学路です。
当時はどれくらいの距離なのか、考えたことありませんでしたが、地図で確かめてみると700~800mの道のりだったようです。
(直線距離だともう少し短いと思われます。)
通っていたのは長崎市立小島小学校です。
「こしま」小学校です。(×こじま)
この玄関付近、そして校舎の主要部分は当時(ウン十年前)のままのようです。
昔も今も、すぐ裏を川が流れています。
狭いグラウンドですが、写真のネットは当時はありませんでした。
そして、体育館もなかったはず…。
現在は各学年2クラス程度のようですが、私が通っていたころは8クラスあったと思います。
そういえば、私が2年生か3年生になるときに、「愛宕小学校」というのが新たに開校して、一部の児童がそちらに移って行った記憶はありますが…。
近くの国道沿いには、中規模のスーパーがあります。
長崎や佐賀に展開する「エレナ」というチェーンだそうです。
ここは昔ボーリング場があったと思うのですが…。
同じ場所かどうか記憶があやふやなのですが、このあたりに市場もありました。
そのスーパーのすぐ下、川のそばで、写真のような廃屋が何軒も目につきます。
明らかに人が住まなくなってから長い年月がたっているように見えます。
ひょっとしたら、1982年の長崎大水害の被害が原因なのかと思ったり…。(詳細は不明)
その近くのこちらのアパートは当時からありました。
某海運会社の社宅ですね。
そして、国道に戻り、いつも使っていた停留所からバスに乗って、繁華街方面に向かいます。
白糸というバス停です。
近くに小さな滝があるので、それから命名されたのでしょう。
そういえば、住んでいたころ、この道は国道ではなかったと思うのですが…。
先に紹介した田上バス停からこの白糸バス停までは、高低差がある上に道が狭くて曲がりくねっていることから、バスで約10分くらいかかるのですが、歩いても15分程度ではないかと思います。
さて、乗り込んだバスの内部はこんな感じ。
トランスミッション(ギア)のレバーも懐かしい感じですね。
(最近あまり見ないような気がします。)
そして「降車知らせボタン」もこんな懐かしい感じ。
これは、バスの車体を更新する際に、再利用しているのでしょうか?
この形のボタンは、その昔、まだ車掌さんが乗務していた時代、車掌と運転手の間で合図するためのブザーの形を受け継いだものだという話です。
(つづく)
長崎駅前のホテルからバスで移動し、家人の旧宅付近から、幼稚園~小学校前半に住んでいた家付近へ。
借家の大家さんらしき家を確認した後、坂道・階段をどんどん降りていきます。
当時の通学路です。
当時はどれくらいの距離なのか、考えたことありませんでしたが、地図で確かめてみると700~800mの道のりだったようです。
(直線距離だともう少し短いと思われます。)
通っていたのは長崎市立小島小学校です。
「こしま」小学校です。(×こじま)
この玄関付近、そして校舎の主要部分は当時(ウン十年前)のままのようです。
昔も今も、すぐ裏を川が流れています。
狭いグラウンドですが、写真のネットは当時はありませんでした。
そして、体育館もなかったはず…。
現在は各学年2クラス程度のようですが、私が通っていたころは8クラスあったと思います。
そういえば、私が2年生か3年生になるときに、「愛宕小学校」というのが新たに開校して、一部の児童がそちらに移って行った記憶はありますが…。
近くの国道沿いには、中規模のスーパーがあります。
長崎や佐賀に展開する「エレナ」というチェーンだそうです。
ここは昔ボーリング場があったと思うのですが…。
同じ場所かどうか記憶があやふやなのですが、このあたりに市場もありました。
そのスーパーのすぐ下、川のそばで、写真のような廃屋が何軒も目につきます。
明らかに人が住まなくなってから長い年月がたっているように見えます。
ひょっとしたら、1982年の長崎大水害の被害が原因なのかと思ったり…。(詳細は不明)
その近くのこちらのアパートは当時からありました。
某海運会社の社宅ですね。
そして、国道に戻り、いつも使っていた停留所からバスに乗って、繁華街方面に向かいます。
白糸というバス停です。
近くに小さな滝があるので、それから命名されたのでしょう。
そういえば、住んでいたころ、この道は国道ではなかったと思うのですが…。
先に紹介した田上バス停からこの白糸バス停までは、高低差がある上に道が狭くて曲がりくねっていることから、バスで約10分くらいかかるのですが、歩いても15分程度ではないかと思います。
さて、乗り込んだバスの内部はこんな感じ。
トランスミッション(ギア)のレバーも懐かしい感じですね。
(最近あまり見ないような気がします。)
そして「降車知らせボタン」もこんな懐かしい感じ。
これは、バスの車体を更新する際に、再利用しているのでしょうか?
この形のボタンは、その昔、まだ車掌さんが乗務していた時代、車掌と運転手の間で合図するためのブザーの形を受け継いだものだという話です。
(つづく)
私の母校は完全に校舎を建て替えたので、母校だという気がしなくなってしまいました。
バスは懐かしいですね。
特に、降車を知らせるためのボタン、昔はこんなのでした。
by YAP (2015-01-09 08:46)
この母校、1年生のときは2階建て木造校舎の1Fの教室だったと思うのですが、さすがにそちらはかなり早い時期に取り壊されたようです。
クラスの数が数分の一になって、教室とか余ってるんでしょうね…。
by Lionbass (2015-01-14 11:52)
裏の川にザボンが生ってる木がありまして実を取っては川の上流に投げ込み途中で引っかからずに流れきったら成功という遊びをやってました。
また正門から左に出てすぐ駄菓子屋がありましたね。その先にはアゲインという理髪店がありました。アゲインというのは英語で再びという意味で一度辞めてまた再開したからそうつけたんだってと友達と談笑してました。
桃源橋を渡ってすぐ左側には無人の家屋があってネコ屋敷になってました。
その奥にはまた無人の集合住宅があって友達と潜入して遊んだことがあります。
私のときもクラスは8だったとおもいます。
現在たったの2クラスと知り驚きともに寂しさを覚えます。
少子化が進んでいるのが大きいでしょうが、それにしても激減しているのは
長崎から離れる人が多いんでしょうかねえ?
ここを見つけてあまりの懐かしさにコメントさせて頂きました。
by 昭和56年卒業の者です。 (2015-11-10 07:40)
私は貴方の先輩でしょうね。私が小島小に入学した当時は、運動場が上下あり長い滑り台でつながっていました。鉄筋コンクリート4階建ての校舎は私の3年生くらいの時出来たと記憶してます。その後増築して現在のたてものになっています。私の時代が生徒数が一番多かったですね。記憶というものは長い年月が経つと忘れてしまいますが、火事だけは鮮明に覚えています。昭和33年3月5日休憩時間に、教材を置いてある三角部屋から出火、運動場側にあった2階建て木造教室を全焼、私たち生徒は必死で愛宕にあった玉木グランドに避難、日ごろの避難訓練の成果と、先生方の誘導で全員無事で避難することが出来ました。
今でも小桃源のこの地で過ごしています。
by 小桃源 (2015-11-14 09:32)
私なんかかなり若輩者ですね。
この学校相当歴史があるんですね。131年ですか。(驚)
今の校舎なんかもう50年以上使用しているんですね。
長崎は地形のせいで建物はなかなか建て替えなど難しく末永く残るのが特徴ですね。
以前訪れたときほとんど変わってないのに感動しました。
思い出や歴史がずっと残るというのは他にはあまりない利点だと思います。
他所の県で以前住んでいたところは道やらなんやら完全に作り直されて
どこがどこやらワケ分からなくなってます。(笑)
まあその代わり開発という点においては・・・ということになりますが。
西側の木造の校舎は私のときはまだありましたが倉庫として使われてました。
跳び箱とかマットなど体育用具の収納部屋になってました。よく覚えてないですけど畳敷きになってたかな・・?まてよ・・一部教室として使ってたか・・?暗かったのは覚えてます。
体育の授業で使用する際には一々体育館までの長い距離を運んでいました。
階段があって下から2段目のところに白ヘビだか猫だかが死んでいたというオカルト的噂が友人間であって小学生の多感な時期でしたから本気で怖がってました。
それと自分のときプールの建設をやってました。
あと5年と6年の1年半だけいて他行ってた学校とごっちゃになってるかもしれません。
8組もなかったかな。
by NO NAME (2015-11-17 03:38)
昭和56年卒業の者です。さま、小桃源さま、NONAMEさま
(まとめてのレスで恐縮です。)
先輩、後輩のみなさまからのコメント、大変ありがたく存じます。
「小桃源の昔より」という校歌の歌詞、もちろん覚えています。
通っていたのは何しろ50年くらい前の話ですが、ブログにアクセスしてくださる方がこんなにたくさんいらっしゃるとは、驚きでした。
つい最近(このエントリーを書いてからだいぶ経ってからですが)、テレビで「ながさきぶらぶら好き」という番組が放送されていて、何回か見ました。
元々長崎のケーブルテレビで放送されたもののようですが、東京でも見られました。
その中に、正覚寺下~小島小学校~白糸の滝付近を紹介する回があって、もう懐かしいから驚くやら。
本文で紹介した「スーパー」(元ボーリング場)の近くと思われる場所に、「百花園」という「茶屋」があって、幕末か明治のころには名士たちの社交場となっていたそうです。
この辺の話、「長崎 百花園」で検索されると、いくつかの情報がヒットしますね。
ご参考になるかどうかわかりませんが…。
by Lionbass (2015-11-17 15:51)