《旅の総括》食事とビールについて【2015欧州3カ国旅行記(39)】 [旅行・乗り物]
「《《旅の総括》難民問題について【2015欧州3カ国旅行記(38)】」から続きます。
今回の旅はポーランド(4泊5日)、ドイツ(3泊4日)、フィンランド(1泊2日)に滞在したわけですが、旅行中の主な食事を振り返ってみます。(写真はすべて再掲)
【ポーランド編】
まず滞在したワルシャワ。
2日目のお昼ごはんが一番「ポーランド料理」っぽかったかもしれません。
ワジェンキ公園でショパンのピアノ曲の野外演奏会を聴いたあと、公園近くのレストランで食べた「ポークカツ」です。
こちらは、その夜のポーランド風ギョーザ「ピエロギ」。
《ピエロギ店の看板》
こちらは"Lionbass"の故郷、ルブリンで食べた”リンゴケーキ”です。
(お昼ごはんはイタリア料理でした。)
その夜、古都クラクフの旧市街広場に面したカフェで食べたパンケーキとピエロギ(ギョーザ)。
こちらは、クラクフのユダヤ人地区にあるレストランで食べたチキン料理です。
クラクフから高速列車でワルシャワに戻った際は、時間が遅かったのでテイクアウトのピザ(ピザトースト?)のような軽食で済ませました。
【ドイツ編】
ベルリン中央駅で食べたベルリン名物「カリーブルスト」(カレー味ソーセージ)。
「アイスバイン」(ゆでた豚の脚)はホテル近くの老舗レストランでいただきました。
「ソニーセンター」にあるレストランで食べたステーキ。
演奏会前は「ノルトゼー」(シーフードのチェーン)で白身魚をいただきました。
ベルリン最後の朝のウィーン風朝食。
ベルリン在住のコントラバス奏者に案内してもらった湖畔のレストランで「ターフェルシュピッツ」(牛肉の煮込み)。
【フィンランド編】
ヘルシンキの屋台(テント)で食べたシーフード(サーモンなど)の鉄板焼き。
フィンランド航空の機内食です。
【ビール編】
ポーランドは「ティスキエ」と「ジヴィエツ」が2大ブランドのようです。
《ティスキエ》
《ジヴィエツ》
《ジヴィエツビール(クラクフにて)》
《ジヴィエツ(ベルリン・ワルシャワ・エクスプレスの食堂車にて)》
ドイツはもっとバラエティーに飛んでました。
《エルディンガー》
《フランツィスカナー》
《ビットブルガー(「ノルトゼー」にて)》
《タイガービール(シンガポールのブランド)》
《カールスバーグ(デンマークのブランド)フィンランド航空の機内にて》
やはりドイツはビール天国ですね。
チェコも勝るとも劣らない充実ぶりでしたが、ポーランドはそこまでではないようでした。
でも毎日おいしく飲みましたが…。
(つづく)
今回の旅はポーランド(4泊5日)、ドイツ(3泊4日)、フィンランド(1泊2日)に滞在したわけですが、旅行中の主な食事を振り返ってみます。(写真はすべて再掲)
【ポーランド編】
まず滞在したワルシャワ。
2日目のお昼ごはんが一番「ポーランド料理」っぽかったかもしれません。
ワジェンキ公園でショパンのピアノ曲の野外演奏会を聴いたあと、公園近くのレストランで食べた「ポークカツ」です。
こちらは、その夜のポーランド風ギョーザ「ピエロギ」。
《ピエロギ店の看板》
こちらは"Lionbass"の故郷、ルブリンで食べた”リンゴケーキ”です。
(お昼ごはんはイタリア料理でした。)
その夜、古都クラクフの旧市街広場に面したカフェで食べたパンケーキとピエロギ(ギョーザ)。
こちらは、クラクフのユダヤ人地区にあるレストランで食べたチキン料理です。
クラクフから高速列車でワルシャワに戻った際は、時間が遅かったのでテイクアウトのピザ(ピザトースト?)のような軽食で済ませました。
【ドイツ編】
ベルリン中央駅で食べたベルリン名物「カリーブルスト」(カレー味ソーセージ)。
「アイスバイン」(ゆでた豚の脚)はホテル近くの老舗レストランでいただきました。
「ソニーセンター」にあるレストランで食べたステーキ。
演奏会前は「ノルトゼー」(シーフードのチェーン)で白身魚をいただきました。
ベルリン最後の朝のウィーン風朝食。
ベルリン在住のコントラバス奏者に案内してもらった湖畔のレストランで「ターフェルシュピッツ」(牛肉の煮込み)。
【フィンランド編】
ヘルシンキの屋台(テント)で食べたシーフード(サーモンなど)の鉄板焼き。
フィンランド航空の機内食です。
【ビール編】
ポーランドは「ティスキエ」と「ジヴィエツ」が2大ブランドのようです。
《ティスキエ》
《ジヴィエツ》
《ジヴィエツビール(クラクフにて)》
《ジヴィエツ(ベルリン・ワルシャワ・エクスプレスの食堂車にて)》
ドイツはもっとバラエティーに飛んでました。
《エルディンガー》
《フランツィスカナー》
《ビットブルガー(「ノルトゼー」にて)》
《タイガービール(シンガポールのブランド)》
《カールスバーグ(デンマークのブランド)フィンランド航空の機内にて》
やはりドイツはビール天国ですね。
チェコも勝るとも劣らない充実ぶりでしたが、ポーランドはそこまでではないようでした。
でも毎日おいしく飲みましたが…。
(つづく)
《旅の総括》難民問題について【2015欧州3カ国旅行記(38)】 [旅行・乗り物]
「《旅の総括》『フィンランドの歴史』について【2015欧州3カ国旅行記(37)】」から続きます。
今回(去年9月)はポーランドとドイツ(ベルリン)、そして経由地のフィンランドを訪れました。
実は、計画段階では「ポーランド&ベルリン」にするか「ハンガリー&ウィーン」にするか、最後の段階まで迷ってました。
3年前のチェコ(プラハとチェスキークルムロフ)がとても素敵だったので、東欧に行きたいと思い、未訪問のポーランドとハンガリーについて検討した結果、20年以上訪れていなかったベルリンも行きたかったので、「ポーランド&ベルリン」に決めました。
【写真=チェコ南部の世界遺産の町・チェスキークルムロフ(2013.1)】
なぜこんな話を書くかというと、「もしハンガリーに行っていたら、(シリアなどからの)難民にもろに遭遇していたから」なんです。
旅行に出たのは去年の9月5日(土曜日)だったのですが、ちょうどその日にドイツのメルケル首相が、ハンガリーのブダペストで足止め状態だった多くの難民の受け入れを表明しました。
その日はポーランド・ワルシャワに到着した日でもあるわけですが、ヨーロッパのニュース番組はこの問題一色。
そして、約9日間の滞在中、ドイツや中央ヨーロッパ諸国にとって大きな問題であり続けました。
それどころか、現在でも大きな問題だし、たぶん歴史上に残る出来事ということになるのでしょう。
【写真=ワルシャワ中央駅】
ワルシャワ中央駅を何回か利用しましたが、難民の姿はなく、まったく平常でした。
もしブダペストに行っていたら、駅の構内を埋め尽くす難民を目撃していたと思われます。
ブダペストからドイツに向かった難民は、まずはミュンヘンなどドイツ南部に向かったようで、ベルリンでも難民には遭遇しませんでした。
ただベルリンにはもともと、トルコ系やアラブ系の人たちが多いので、街のあちこちで中東出身らしき人たちは目にしましたが…。
そういえば、ポーランド訪問を終え、ベルリンに移動した直後には、ワルシャワで「難民受け入れ反対デモ」が行われていました。
(ポーランド政府は一貫して難民受け入れには消極的なようです。)
普段、旅行では飛行機で移動することが多いわけですが、3年前のチェコ(チェスキークルムロフ)からオーストリア(ウィーン)の移動は運転手付きの車借り上げ、今回のポーランド(ワルシャワ)からドイツ(ベルリン)への移動は鉄道(国際列車)でした。
チェコ→オーストリアでは国境にゲートらしきものがありましたが、車はもちろん素通り。
今回のポーランド→ドイツでも列車はそのまま国境を越え、特にパスポートのチェックなどはありませんでした。
今回の難民問題と、その後に起きたパリでの同時テロ事件を受け、ヨーロッパの「シェンゲン協定」締結国の間でも、国境でのチェックが厳しくなっていると言います。
国境をノーチェックで越えるのも、「昔話」になってしまうのかもしれません。
とことで、まったく話は変わりますが、ポーランドで妙に印象に残っているのは、若い女性のほとんど(おそらく90%以上)がスキニーのジーンズ(ごく一部はそれに類するぴったりのパンツ)をはいていたことです。
しかも、みんな似合っていたというか、カッコよく着こなしていました。
写真を撮るわけにもいかず、「話だけ」なんですが…。
ドイツ(ベルリン)でもスキニージーンズの女性は多かったんですが、ポーランドほどの割合ではありませんでした。
今回(去年9月)はポーランドとドイツ(ベルリン)、そして経由地のフィンランドを訪れました。
実は、計画段階では「ポーランド&ベルリン」にするか「ハンガリー&ウィーン」にするか、最後の段階まで迷ってました。
3年前のチェコ(プラハとチェスキークルムロフ)がとても素敵だったので、東欧に行きたいと思い、未訪問のポーランドとハンガリーについて検討した結果、20年以上訪れていなかったベルリンも行きたかったので、「ポーランド&ベルリン」に決めました。
【写真=チェコ南部の世界遺産の町・チェスキークルムロフ(2013.1)】
なぜこんな話を書くかというと、「もしハンガリーに行っていたら、(シリアなどからの)難民にもろに遭遇していたから」なんです。
旅行に出たのは去年の9月5日(土曜日)だったのですが、ちょうどその日にドイツのメルケル首相が、ハンガリーのブダペストで足止め状態だった多くの難民の受け入れを表明しました。
その日はポーランド・ワルシャワに到着した日でもあるわけですが、ヨーロッパのニュース番組はこの問題一色。
そして、約9日間の滞在中、ドイツや中央ヨーロッパ諸国にとって大きな問題であり続けました。
それどころか、現在でも大きな問題だし、たぶん歴史上に残る出来事ということになるのでしょう。
【写真=ワルシャワ中央駅】
ワルシャワ中央駅を何回か利用しましたが、難民の姿はなく、まったく平常でした。
もしブダペストに行っていたら、駅の構内を埋め尽くす難民を目撃していたと思われます。
ブダペストからドイツに向かった難民は、まずはミュンヘンなどドイツ南部に向かったようで、ベルリンでも難民には遭遇しませんでした。
ただベルリンにはもともと、トルコ系やアラブ系の人たちが多いので、街のあちこちで中東出身らしき人たちは目にしましたが…。
そういえば、ポーランド訪問を終え、ベルリンに移動した直後には、ワルシャワで「難民受け入れ反対デモ」が行われていました。
(ポーランド政府は一貫して難民受け入れには消極的なようです。)
普段、旅行では飛行機で移動することが多いわけですが、3年前のチェコ(チェスキークルムロフ)からオーストリア(ウィーン)の移動は運転手付きの車借り上げ、今回のポーランド(ワルシャワ)からドイツ(ベルリン)への移動は鉄道(国際列車)でした。
チェコ→オーストリアでは国境にゲートらしきものがありましたが、車はもちろん素通り。
今回のポーランド→ドイツでも列車はそのまま国境を越え、特にパスポートのチェックなどはありませんでした。
今回の難民問題と、その後に起きたパリでの同時テロ事件を受け、ヨーロッパの「シェンゲン協定」締結国の間でも、国境でのチェックが厳しくなっていると言います。
国境をノーチェックで越えるのも、「昔話」になってしまうのかもしれません。
とことで、まったく話は変わりますが、ポーランドで妙に印象に残っているのは、若い女性のほとんど(おそらく90%以上)がスキニーのジーンズ(ごく一部はそれに類するぴったりのパンツ)をはいていたことです。
しかも、みんな似合っていたというか、カッコよく着こなしていました。
写真を撮るわけにもいかず、「話だけ」なんですが…。
ドイツ(ベルリン)でもスキニージーンズの女性は多かったんですが、ポーランドほどの割合ではありませんでした。
《旅の総括》『フィンランドの歴史』について【2015欧州3カ国旅行記(37)】 [旅行・乗り物]
「《旅の総括》『ベルリンの歴史』について【2015欧州3カ国旅行記(36)】」から続きます。
ポーランドが周辺の大国に侵略・支配されたこと、ベルリンが「壁」により分断されるという「冷戦の象徴」であったことについて書きましたが、フィンランドも実は「外国」に支配された歴史があります。
その「外国」とはスウェーデンとロシアです。
フィンランドは12世紀ごろから19世紀初めまでスウェーデンの支配下にあり、続いて19世紀からはロシアに支配されました。
現在でも、フィンランド国内の案内標識などは、スウェーデン語とフィンランド語の2つの言語で書かれています。
首都ヘルシンキのシンボル、白亜のドームが印象的なヘルシンキ大聖堂は、プロテスタントの教会ですが、スウェーデンに支配されていた時代にプロテスタントが広まったそうです。
一方、そこから数百メートルの場所にあるウスペンスキー大寺院はロシア正教の教会。
ロシア国外にあるものとしては最大ということです。
この2つの教会が、スウェーデン支配時代とロシア支配時代を象徴していると言えるのではないでしょうか?
フィンランドの「第2の国歌」とされるシベリウスの交響詩「フィンランディア」が作曲されたのは19世紀末のこと。
フィンランド人のナショナリズムの盛り上がりがシベリウスの創作活動にも影響を与えたそうです。
しかし、ロシアの支配から脱するには1910年代のロシア革命と第一次大戦を待たねばなりませんでした。
そして、第二次大戦後、フィンランドは経済体制としては資本主義を採用したものの、NATO(北大西洋条約機構)には加盟せず、ソ連の意向に真っ向からは反対しない(できない)状況が続きました。
「フィンランド化」という言葉があって、こうした状況(資本主義だが共産陣営の影響下にある)を指します。
まさに、フィンランドが置かれた難しい立場を象徴していますね。
そういえば、フィンランド人はアジアから興ったフン族の末裔という説もあるようですね。
現在のフィンランド人がアジア人的な部分を持っているかどうかと聞かれれば、ほとんど確認できないという答えになるようですが…。
(つづく)
ポーランドが周辺の大国に侵略・支配されたこと、ベルリンが「壁」により分断されるという「冷戦の象徴」であったことについて書きましたが、フィンランドも実は「外国」に支配された歴史があります。
その「外国」とはスウェーデンとロシアです。
フィンランドは12世紀ごろから19世紀初めまでスウェーデンの支配下にあり、続いて19世紀からはロシアに支配されました。
現在でも、フィンランド国内の案内標識などは、スウェーデン語とフィンランド語の2つの言語で書かれています。
首都ヘルシンキのシンボル、白亜のドームが印象的なヘルシンキ大聖堂は、プロテスタントの教会ですが、スウェーデンに支配されていた時代にプロテスタントが広まったそうです。
一方、そこから数百メートルの場所にあるウスペンスキー大寺院はロシア正教の教会。
ロシア国外にあるものとしては最大ということです。
この2つの教会が、スウェーデン支配時代とロシア支配時代を象徴していると言えるのではないでしょうか?
フィンランドの「第2の国歌」とされるシベリウスの交響詩「フィンランディア」が作曲されたのは19世紀末のこと。
フィンランド人のナショナリズムの盛り上がりがシベリウスの創作活動にも影響を与えたそうです。
しかし、ロシアの支配から脱するには1910年代のロシア革命と第一次大戦を待たねばなりませんでした。
そして、第二次大戦後、フィンランドは経済体制としては資本主義を採用したものの、NATO(北大西洋条約機構)には加盟せず、ソ連の意向に真っ向からは反対しない(できない)状況が続きました。
「フィンランド化」という言葉があって、こうした状況(資本主義だが共産陣営の影響下にある)を指します。
まさに、フィンランドが置かれた難しい立場を象徴していますね。
そういえば、フィンランド人はアジアから興ったフン族の末裔という説もあるようですね。
現在のフィンランド人がアジア人的な部分を持っているかどうかと聞かれれば、ほとんど確認できないという答えになるようですが…。
(つづく)
《旅の総括》『ベルリンの歴史』について【2015欧州3カ国旅行記(36)】 [旅行・乗り物]
《旅の総括》『ポーランドの歴史』について【2015欧州3カ国旅行記(35)】」から続きます。
歴史上たびたび侵略され、周囲の大国に支配されてきた「ポーランドの歴史」に続いて、「ベルリンの歴史」編です。
ドイツは、ポーランドなどから見ると侵略したり支配した側ではありますが、ベルリンという都市としてみると、冷戦期を中心に歴史の荒波に揉まれてきた歴史があります。
こちらは東西統一のシンボルとなったブランデンブルク門。
統一前は壁のすぐ東側にありました。
すでに書きましたが、ベルリンを訪れたのは25年ぶりでした。
前回の訪問は1990年の夏休みで、前年に壁が崩壊し、東西間の通行が自由になっていましたが、正式な統一はまだでした。
ベルリンでレンタカーを借りて、ハンブルク、ブレーメンなどを回って、フランクフルト空港まで車で回りました。
「壁」は1961年に建設され、89年に「崩壊」したわけで、存在していた期間は28年。
これが「長い」と感じるか「その程度だったのか」と思うか、いろいろあるでしょう。
その間、「壁」を越えようとして命を落とした人は百数十人と、そんなに多くはないものの、逮捕者は数千人に上るということです。
「壁」崩壊から今年で27年になりますから、実は存在していた期間とほとんど同じです。
しかし「壁」(=「分断」)の後遺症は今でもあちこちでみられるようです。
その「壁」ですが、ベルリン市内には「歴史の証人」としてあちこちに「実物」が残されています。
こちらはマウアー通り。
こちらはベルナウアー通りの「壁」。
住宅街の中にあることで、その「異様さ」が際立つような気がします。
こちらはシュプレー川沿いにある「イーストサイド・ギャラリー」という場所。
このブレジネフ書記長(ソ連)とホーネッカー議長(東ドイツ)のキスの絵は有名です。
こちらは「戦勝記念塔」。
デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争という3つの戦争の勝利を表しているそうですが、ヒトラーがさらに段を増やす計画もあったのだとか。
ドイツは、ヨーロッパの国々にたびたび侵攻し、第一次、第二次の両世界大戦で敗戦国となりました。
自分たちにも責任があるとはいえ、市民は歴史に翻弄されてきました。
現在、ドイツはヨーロッパにおいてますます存在感を増しています。
共通通貨ユーロの危機や、難民問題などで中心的な役割を求められています。
今回の旅行中も、そうした問題の一端を垣間見ることになりました。
(つづく)
歴史上たびたび侵略され、周囲の大国に支配されてきた「ポーランドの歴史」に続いて、「ベルリンの歴史」編です。
ドイツは、ポーランドなどから見ると侵略したり支配した側ではありますが、ベルリンという都市としてみると、冷戦期を中心に歴史の荒波に揉まれてきた歴史があります。
こちらは東西統一のシンボルとなったブランデンブルク門。
統一前は壁のすぐ東側にありました。
すでに書きましたが、ベルリンを訪れたのは25年ぶりでした。
前回の訪問は1990年の夏休みで、前年に壁が崩壊し、東西間の通行が自由になっていましたが、正式な統一はまだでした。
ベルリンでレンタカーを借りて、ハンブルク、ブレーメンなどを回って、フランクフルト空港まで車で回りました。
「壁」は1961年に建設され、89年に「崩壊」したわけで、存在していた期間は28年。
これが「長い」と感じるか「その程度だったのか」と思うか、いろいろあるでしょう。
その間、「壁」を越えようとして命を落とした人は百数十人と、そんなに多くはないものの、逮捕者は数千人に上るということです。
「壁」崩壊から今年で27年になりますから、実は存在していた期間とほとんど同じです。
しかし「壁」(=「分断」)の後遺症は今でもあちこちでみられるようです。
その「壁」ですが、ベルリン市内には「歴史の証人」としてあちこちに「実物」が残されています。
こちらはマウアー通り。
こちらはベルナウアー通りの「壁」。
住宅街の中にあることで、その「異様さ」が際立つような気がします。
こちらはシュプレー川沿いにある「イーストサイド・ギャラリー」という場所。
このブレジネフ書記長(ソ連)とホーネッカー議長(東ドイツ)のキスの絵は有名です。
こちらは「戦勝記念塔」。
デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争という3つの戦争の勝利を表しているそうですが、ヒトラーがさらに段を増やす計画もあったのだとか。
ドイツは、ヨーロッパの国々にたびたび侵攻し、第一次、第二次の両世界大戦で敗戦国となりました。
自分たちにも責任があるとはいえ、市民は歴史に翻弄されてきました。
現在、ドイツはヨーロッパにおいてますます存在感を増しています。
共通通貨ユーロの危機や、難民問題などで中心的な役割を求められています。
今回の旅行中も、そうした問題の一端を垣間見ることになりました。
(つづく)
《旅の総括》『ポーランドの歴史』について【2015欧州3カ国旅行記(35)】 [旅行・乗り物]
「《旅の総括》『音楽』について【2015欧州3カ国旅行記(34)】」から続きます。
去年9月の旅の総括は「交通と宿」「音楽」に続き「歴史」ですが、まずは「ポーランドの歴史」について。
「ポーランド」という国名は「平原の国」という意味だそうですが、西にドイツ、東にロシアという強国・大国に挟まれて、歴史上、たびたび侵略を受け、支配されてきました。
前回も触れたポーランドが誇る「ピアノの詩人」、ショパンは1810年にワルシャワ近郊で生まれました。
まだベートーヴェンが存命・活躍していた時代です。
ショパンは20歳の時にワルシャワを離れ、その後は一度もポーランドに戻りませんでした。
当時ポーランドは実質上ロシアの支配下にあり、ショパンが出国した直後の1830年11月にロシアに対する反乱が起きましたが、鎮圧されました。
ショパンは帰国して反ロシアの動きに加わろうとしたものの、家族や周囲の説得により思いとどまったということです。
写真はワルシャワにあるショパン博物館ですが、この中にも、こうしたショパンの経歴・足跡に関する展示がありました。
ポーランドでは19世紀中になんども反乱が起きますが、そのたびにロシアやプロイセン、オーストリアなどにより鎮圧されたそうです。
その後、20世紀に入って第一次世界大戦の結果、ポーランドはようやく独立。
私の楽器"Lionbass"のラベルにある「1922年」は、ポーランドが独立国としての地位にありました。
しかし、ナチスドイツが1939年9月にポーランドに侵攻。
第二次大戦の口火を切りました。
ポーランドの国土はドイツ、ソ連、リトアニア、スロバキアの4カ国に分割占領されました。
市民はナチスの弾圧に苦しみ、多くのユダヤ人が(そしてユダヤ人以外のポーランド人も)強制収容所に送られました。
ポーランド国内にはナチスの収容所が何カ所も造られました。
下の写真はルブリン市内にあるマイダネク収容所です。
そして、大戦末期の1944年8月、ワルシャワ市民はナチスドイツに対して蜂起しました。
当時、ナチスドイツは長引く戦争で戦力が低下。
一方、東からワルシャワに迫りつつあったソ連軍は、ポーランド国民に対しドイツに対する反乱を呼びかけていたそうです。
この「ワルシャワ蜂起」は当初は戦果をあげていましたが、ドイツ軍は態勢を立て直して反撃。
蜂起軍の旗色は次第に悪くなっていきますが、当てにしていたソ連軍の加勢は得られませんでした。
これは、すでに戦後の勢力争いを見越したソ連軍が、戦力温存のために事態を傍観していたためだといわれています。
そして、蜂起が鎮圧されると、ナチスドイツは「懲罰」としてワルシャワ市街を徹底的に破壊しました。
こうした歴史は「戦場のピアニスト」など多くの映画の題材となっています。
下の写真はワルシャワの市街地ですが、そのほとんどは大戦で瓦礫と化していたものを戦後に修復したものだそうです。
第二次大戦後は、事実上ソ連の支配下で共産主義体制が続きましたが、1980年代に「自主管理労組『連帯』」が台頭して、冷戦終結の前触れとなりました。
19世紀と20世紀に限っても、ポーランドが経験してきた歴史の過酷さは想像を絶するものがあります。
このブログには政治的なことは書かないことにしているんですが、「外国から侵略される」ということの意味を考えざるをえないですね。
(つづく)
去年9月の旅の総括は「交通と宿」「音楽」に続き「歴史」ですが、まずは「ポーランドの歴史」について。
「ポーランド」という国名は「平原の国」という意味だそうですが、西にドイツ、東にロシアという強国・大国に挟まれて、歴史上、たびたび侵略を受け、支配されてきました。
前回も触れたポーランドが誇る「ピアノの詩人」、ショパンは1810年にワルシャワ近郊で生まれました。
まだベートーヴェンが存命・活躍していた時代です。
ショパンは20歳の時にワルシャワを離れ、その後は一度もポーランドに戻りませんでした。
当時ポーランドは実質上ロシアの支配下にあり、ショパンが出国した直後の1830年11月にロシアに対する反乱が起きましたが、鎮圧されました。
ショパンは帰国して反ロシアの動きに加わろうとしたものの、家族や周囲の説得により思いとどまったということです。
写真はワルシャワにあるショパン博物館ですが、この中にも、こうしたショパンの経歴・足跡に関する展示がありました。
ポーランドでは19世紀中になんども反乱が起きますが、そのたびにロシアやプロイセン、オーストリアなどにより鎮圧されたそうです。
その後、20世紀に入って第一次世界大戦の結果、ポーランドはようやく独立。
私の楽器"Lionbass"のラベルにある「1922年」は、ポーランドが独立国としての地位にありました。
しかし、ナチスドイツが1939年9月にポーランドに侵攻。
第二次大戦の口火を切りました。
ポーランドの国土はドイツ、ソ連、リトアニア、スロバキアの4カ国に分割占領されました。
市民はナチスの弾圧に苦しみ、多くのユダヤ人が(そしてユダヤ人以外のポーランド人も)強制収容所に送られました。
ポーランド国内にはナチスの収容所が何カ所も造られました。
下の写真はルブリン市内にあるマイダネク収容所です。
そして、大戦末期の1944年8月、ワルシャワ市民はナチスドイツに対して蜂起しました。
当時、ナチスドイツは長引く戦争で戦力が低下。
一方、東からワルシャワに迫りつつあったソ連軍は、ポーランド国民に対しドイツに対する反乱を呼びかけていたそうです。
この「ワルシャワ蜂起」は当初は戦果をあげていましたが、ドイツ軍は態勢を立て直して反撃。
蜂起軍の旗色は次第に悪くなっていきますが、当てにしていたソ連軍の加勢は得られませんでした。
これは、すでに戦後の勢力争いを見越したソ連軍が、戦力温存のために事態を傍観していたためだといわれています。
そして、蜂起が鎮圧されると、ナチスドイツは「懲罰」としてワルシャワ市街を徹底的に破壊しました。
こうした歴史は「戦場のピアニスト」など多くの映画の題材となっています。
下の写真はワルシャワの市街地ですが、そのほとんどは大戦で瓦礫と化していたものを戦後に修復したものだそうです。
第二次大戦後は、事実上ソ連の支配下で共産主義体制が続きましたが、1980年代に「自主管理労組『連帯』」が台頭して、冷戦終結の前触れとなりました。
19世紀と20世紀に限っても、ポーランドが経験してきた歴史の過酷さは想像を絶するものがあります。
このブログには政治的なことは書かないことにしているんですが、「外国から侵略される」ということの意味を考えざるをえないですね。
(つづく)
《旅の総括》『音楽』について【2015欧州3カ国旅行記(34)】 [旅行・乗り物]
「《旅の総括》交通と宿の手配について【2015欧州3カ国旅行記(33)】」から続きます。
今回の旅の『テーマ』は鉄道と音楽と歴史でした。
このエントリーは「音楽」について。
ポーランドといえば「ピアノの詩人」と呼ばれるショパンのふるさと。
ベルリンといえば「世界最高峰のオーケストラ」ベルリン・フィルハーモニーの本拠地であり、世界中の音楽ホールが『お手本』にしてきたフィルハーモニー(ホール)の所在地。
そして、フィンランドといえばシベリウスを生んだ国であり、現在では多くの世界的指揮者を輩出していることで知られます。
こちらはワルシャワのショパン博物館のピアノ。
ワルシャワ市民の憩いの場、ワジェンキ公園にある大きなショパン像。
池のほとりにあって、夏の週末に開かれるコンサートを聴くことができました。
聖十字架教会とショパンの墓銘碑。
ワルシャワでも演奏会に行きたいところでしたが、ヨーロッパに到着直後は時差の関係でかなりツラいので、見送りました。
ワルシャワからクラクフに向かう途中に立ち寄ったルブリンという町は、私の愛器"Lionbass"(ライオンベース)の「故郷」。
ラベルには「1922年に誰それがルブリンで弾いた」と書いてあります。
ここで製作されたかどうかは分からないのですが、1999年に購入して以来、「一度訪れたい」と思っていた願いがかないました。
ポーランド南部の古都クラクフでは、アマデウス・ホテルというモーツァルトにちなんだ宿に泊まりました。
ユダヤ人地区で入ったレストランでは、こんな「クレズマー」(ユダヤ音楽)のバンドが演奏していました。
ベルリンでは、フィルハーモニーホールの見学ツアーに参加し、ホールの内部を見て回りました。
そのあと、楽器博物館を見て、夜は当日券をゲットして演奏会を聴きました。
残念ながらベルリン・フィルではありませんでしたが、やはり名門のフィルハーモニア管弦楽団(イギリス)を聴くことができて満足でした。
最後に1泊したヘルシンキでは、演奏会に行く時間はありませんでしたが、フィンランドのシベリウス公園を訪れました。
(つづく)
今回の旅の『テーマ』は鉄道と音楽と歴史でした。
このエントリーは「音楽」について。
ポーランドといえば「ピアノの詩人」と呼ばれるショパンのふるさと。
ベルリンといえば「世界最高峰のオーケストラ」ベルリン・フィルハーモニーの本拠地であり、世界中の音楽ホールが『お手本』にしてきたフィルハーモニー(ホール)の所在地。
そして、フィンランドといえばシベリウスを生んだ国であり、現在では多くの世界的指揮者を輩出していることで知られます。
こちらはワルシャワのショパン博物館のピアノ。
ワルシャワ市民の憩いの場、ワジェンキ公園にある大きなショパン像。
池のほとりにあって、夏の週末に開かれるコンサートを聴くことができました。
聖十字架教会とショパンの墓銘碑。
ワルシャワでも演奏会に行きたいところでしたが、ヨーロッパに到着直後は時差の関係でかなりツラいので、見送りました。
ワルシャワからクラクフに向かう途中に立ち寄ったルブリンという町は、私の愛器"Lionbass"(ライオンベース)の「故郷」。
ラベルには「1922年に誰それがルブリンで弾いた」と書いてあります。
ここで製作されたかどうかは分からないのですが、1999年に購入して以来、「一度訪れたい」と思っていた願いがかないました。
ポーランド南部の古都クラクフでは、アマデウス・ホテルというモーツァルトにちなんだ宿に泊まりました。
ユダヤ人地区で入ったレストランでは、こんな「クレズマー」(ユダヤ音楽)のバンドが演奏していました。
ベルリンでは、フィルハーモニーホールの見学ツアーに参加し、ホールの内部を見て回りました。
そのあと、楽器博物館を見て、夜は当日券をゲットして演奏会を聴きました。
残念ながらベルリン・フィルではありませんでしたが、やはり名門のフィルハーモニア管弦楽団(イギリス)を聴くことができて満足でした。
最後に1泊したヘルシンキでは、演奏会に行く時間はありませんでしたが、フィンランドのシベリウス公園を訪れました。
(つづく)
《旅の総括》交通と宿の手配について【2015欧州3カ国旅行記(33)】 [旅行・乗り物]
「ヘルシンキ中央駅とマリメッコデザインのエアバス【2015欧州3カ国旅行記(32)】」から続きます。
さて、時系列の「旅行記(主に写真付きの報告)」は一応終わったので、旅を「総括」してみます。(写真はすべて既出です。)
今回の旅行も、手配はすべてネットで完結しました。
旅行会社の窓口にも航空会社の支店にも行かず、ホテルに電話することもありませんでした。
航空券はネット系旅行会社で購入し、ネットでEチケット発行(クレジットカード決済)。
ホテルもすべてホテル予約サイト経由で抑えました。
そして、ポーランド国内およびワルシャワ→ベルリンの列車もネットで予約。
使ったのはポーランド国鉄(Polrail)のサイトとユーレールパスのサイトです。
最初にポーランド国鉄のサイトで旅程について考え、「ワルシャワ−ルブリン」「ルブリン−クラクフ」「クラクフ−ワルシャワ」の3区間について予約。
さらにワルシャワ−ベルリンの国際列車についても予約できることを確認しました。
いずれの列車も1等と2等があるのでちょっと迷いましたが、ちょっと奮発して1等にしました。
その後にユーレールパスのサイトで、パスの種類を検討。
回れる国の数や日数がいろいろあるわけですが、今回は「ポーランド3日間」を購入し、「ポーランド・ドイツ国境からベルリンまでの料金を追加で払う」ということにしました。
こちらも当然1等です。
そのうえで、その追加料金を含めてポーランド国鉄に発注しました。
単純な片道や往復の切符は、クリックしたりプルダウンメニューから選べるのですが、じょうきのようにちょっとだけ複雑なので、注文欄に説明を書き込む必要があり、英語で発注しました。
ポーランド国鉄、ユーレールパスいずれも、「クレジットカードで決済すると、国際宅配便で日本まで送る」とのこと。
旅行まで2カ月くらいある時点で手続きしたのですが、どちらも1週間以内に東京の自宅まで届きました。
ということで、こちらの写真は、ホルダーの上側に入っているのがワルシャワ→ベルリンの「指定席券」で、下側はユーレールパスです。
こちらはワルシャワ→ルブリンの列車。
こちらはクラクフからワルシャワまで乗ったペンドリーノという新型車両。
この車両は前年(2014年)の暮れに導入されたばかり、つまり1年たっていない時点での乗車でした。
予約する時点では、「高速列車が走っているらしい」という程度の認識で、そこまで考慮したわけではなかったんですが、結果的には「話題の車両・路線」に乗ったことになります。
そしてこちらはワルシャワからベルリンまで乗った「ベルリン・ワルシャワ・エクスプレス」。
5時間ほどの旅でしたが、1等は6人掛けのコンパートメントで、食堂車も連結されていて、日本のブルートレイン(寝台特急)を少し思い出しました。
ホテルはワルシャワ(2泊)、クラクフ(1泊)、ワルシャワ(1泊)、ベルリン(3泊)、ヘルシンキ(1泊)とすべてエクスペディアで予約しました。
ワルシャワで最初に泊まったホテル・ブリストル。
クラクフのホテル予約の際、「ホテル予約サイト比較サイト」からエクスペディアに飛んだ際、日付がずれていて、間違ったまま予約を入れてしまうというちょっとした行き違い(トラブル)がありました。
すぐに気づいたので、即座にカスタマーサービスに電話して事情を説明し、取り消すことができたので、実害はありませんでしたが…。
そんなこんなで、すべての予約手続きは7月末までに終了しました。
(実際の旅行は9月上旬〜中旬)
(つづく)
さて、時系列の「旅行記(主に写真付きの報告)」は一応終わったので、旅を「総括」してみます。(写真はすべて既出です。)
今回の旅行も、手配はすべてネットで完結しました。
旅行会社の窓口にも航空会社の支店にも行かず、ホテルに電話することもありませんでした。
航空券はネット系旅行会社で購入し、ネットでEチケット発行(クレジットカード決済)。
ホテルもすべてホテル予約サイト経由で抑えました。
そして、ポーランド国内およびワルシャワ→ベルリンの列車もネットで予約。
使ったのはポーランド国鉄(Polrail)のサイトとユーレールパスのサイトです。
最初にポーランド国鉄のサイトで旅程について考え、「ワルシャワ−ルブリン」「ルブリン−クラクフ」「クラクフ−ワルシャワ」の3区間について予約。
さらにワルシャワ−ベルリンの国際列車についても予約できることを確認しました。
いずれの列車も1等と2等があるのでちょっと迷いましたが、ちょっと奮発して1等にしました。
その後にユーレールパスのサイトで、パスの種類を検討。
回れる国の数や日数がいろいろあるわけですが、今回は「ポーランド3日間」を購入し、「ポーランド・ドイツ国境からベルリンまでの料金を追加で払う」ということにしました。
こちらも当然1等です。
そのうえで、その追加料金を含めてポーランド国鉄に発注しました。
単純な片道や往復の切符は、クリックしたりプルダウンメニューから選べるのですが、じょうきのようにちょっとだけ複雑なので、注文欄に説明を書き込む必要があり、英語で発注しました。
ポーランド国鉄、ユーレールパスいずれも、「クレジットカードで決済すると、国際宅配便で日本まで送る」とのこと。
旅行まで2カ月くらいある時点で手続きしたのですが、どちらも1週間以内に東京の自宅まで届きました。
ということで、こちらの写真は、ホルダーの上側に入っているのがワルシャワ→ベルリンの「指定席券」で、下側はユーレールパスです。
こちらはワルシャワ→ルブリンの列車。
こちらはクラクフからワルシャワまで乗ったペンドリーノという新型車両。
この車両は前年(2014年)の暮れに導入されたばかり、つまり1年たっていない時点での乗車でした。
予約する時点では、「高速列車が走っているらしい」という程度の認識で、そこまで考慮したわけではなかったんですが、結果的には「話題の車両・路線」に乗ったことになります。
そしてこちらはワルシャワからベルリンまで乗った「ベルリン・ワルシャワ・エクスプレス」。
5時間ほどの旅でしたが、1等は6人掛けのコンパートメントで、食堂車も連結されていて、日本のブルートレイン(寝台特急)を少し思い出しました。
ホテルはワルシャワ(2泊)、クラクフ(1泊)、ワルシャワ(1泊)、ベルリン(3泊)、ヘルシンキ(1泊)とすべてエクスペディアで予約しました。
ワルシャワで最初に泊まったホテル・ブリストル。
クラクフのホテル予約の際、「ホテル予約サイト比較サイト」からエクスペディアに飛んだ際、日付がずれていて、間違ったまま予約を入れてしまうというちょっとした行き違い(トラブル)がありました。
すぐに気づいたので、即座にカスタマーサービスに電話して事情を説明し、取り消すことができたので、実害はありませんでしたが…。
そんなこんなで、すべての予約手続きは7月末までに終了しました。
(実際の旅行は9月上旬〜中旬)
(つづく)
ヘルシンキ中央駅とマリメッコデザインのエアバス【2015欧州3カ国旅行記(32)】 [旅行・乗り物]
「ヘルシンキ港とテントの昼食と『かもめ食堂』【2015欧州3カ国旅行記(31)】」から続きます。
ヘルシンキ市内を観光し、港のテントで昼食を済ませ、マリメッコなどで買い物したところで、そろそろ空港に戻る時間です。
空港行きのバスはヘルシンキ中央駅そばから出発するので、駅まで戻ります。
(駅舎の外景は午前中撮影のものです。)
駅の内部はこんな感じです。
ホームはこんな感じ。
「ヨーロッパの駅」という感じですね。
駅のそばのスーパーで見かけた「シベリウス・ビール」。
実はこのあと、ちょっとしたトラブルが。
空港行きのバスは15分に1本出ているのですが、乗ろうと思った便が寸前で満席。
増便もなく、15分後のバスを待つことに。
ところが、いったん列を離れて、乗り場に戻ったところ、またしてもギリギリで乗れないというちょっと想定外の事態。
結局、30分遅れで空港に向かいましたが、チェックインの荷物が締め切られていて、全部機内持ち込みとせざるを得ません。
ベルリンで買って、預ける荷物(チェックインバゲージ)のつもりで入れてあったチーズ類がセキュリティーチェックで引っかかり、放棄する羽目になりました。
まあ現地ではそんなに高いものではなかったんですが、日本で買うとそれなりの値段するので、かなり残念でした。
そして、セキュリティーチェックでもめて時間がかかったため、ゲートまで走ったのですが、搭乗が終わりかけていて、機材に向かうバスに乗ったのは最後でした。
まあ、そんなこんなでフィンランド滞在も終わり。
成田行きの機材はエアバスA340。
マリメッコ・デザインの機体です。
ビールは北欧(といってもデンマーク)のカールスバーグ。
機内食は北欧らしいミートボール。
デザートは袋にムーミンの描かれたお菓子。
成田到着前の朝食です。
フライト時間9時間ちょっとで成田到着。
やはりフィンランドは近いですね。
10日間に渡った欧州3カ国旅行はこうして終わりました。
このあと、旅行記最終回は旅を総括する予定です。
(つづく)
ヘルシンキ市内を観光し、港のテントで昼食を済ませ、マリメッコなどで買い物したところで、そろそろ空港に戻る時間です。
空港行きのバスはヘルシンキ中央駅そばから出発するので、駅まで戻ります。
(駅舎の外景は午前中撮影のものです。)
駅の内部はこんな感じです。
ホームはこんな感じ。
「ヨーロッパの駅」という感じですね。
駅のそばのスーパーで見かけた「シベリウス・ビール」。
実はこのあと、ちょっとしたトラブルが。
空港行きのバスは15分に1本出ているのですが、乗ろうと思った便が寸前で満席。
増便もなく、15分後のバスを待つことに。
ところが、いったん列を離れて、乗り場に戻ったところ、またしてもギリギリで乗れないというちょっと想定外の事態。
結局、30分遅れで空港に向かいましたが、チェックインの荷物が締め切られていて、全部機内持ち込みとせざるを得ません。
ベルリンで買って、預ける荷物(チェックインバゲージ)のつもりで入れてあったチーズ類がセキュリティーチェックで引っかかり、放棄する羽目になりました。
まあ現地ではそんなに高いものではなかったんですが、日本で買うとそれなりの値段するので、かなり残念でした。
そして、セキュリティーチェックでもめて時間がかかったため、ゲートまで走ったのですが、搭乗が終わりかけていて、機材に向かうバスに乗ったのは最後でした。
まあ、そんなこんなでフィンランド滞在も終わり。
成田行きの機材はエアバスA340。
マリメッコ・デザインの機体です。
ビールは北欧(といってもデンマーク)のカールスバーグ。
機内食は北欧らしいミートボール。
デザートは袋にムーミンの描かれたお菓子。
成田到着前の朝食です。
フライト時間9時間ちょっとで成田到着。
やはりフィンランドは近いですね。
10日間に渡った欧州3カ国旅行はこうして終わりました。
このあと、旅行記最終回は旅を総括する予定です。
(つづく)
ヘルシンキ港とテントの昼食と『かもめ食堂』【2015欧州3カ国旅行記(31)】 [旅行・乗り物]
「北欧デザインとヘルシンキ大聖堂と【2015欧州3カ国旅行記(30)】」から続きます。
きのうアップしたウスペンスキー寺院のすぐそばがヘルシンキ港です。
大型の船が停泊しています。
スウェーデン方面へのフェリーのようです。
そろそろ昼食の時間。
どこかフィンランド料理のレストランに入ろうかと思っていたのですが、あまり時間がないのと、港の岸壁近くに店を出している海鮮料理のテントが賑わっていたので、そこに入ることにしました。
こんな感じのサーモンの鉄板焼き、ポテト添えをいただきます。
もちろんビールも一緒…。
ちかくのお店に「フィンランディア」と書かれていますが、たぶんフィンランドさんウオツカですかね。
さらに、路面電車に乗って、こちらへやってきました。
映画になった「かもめ食堂」(の撮影地)です。
実は旅行出発前にレンタルビデオ店で借りて見ました。
残念ながら日曜日のためお休みでした。
そのかもめ食堂近くの停留所からまた路面電車に乗ります。
こちらは日本でも人気のフィンランドのブランド、マリメッコのお店です。
(自分用のお土産を購入。)
ヘルシンキ中央駅近くの屋台。
ベリー類や豆などを売っているようです。
(つづく)
きのうアップしたウスペンスキー寺院のすぐそばがヘルシンキ港です。
大型の船が停泊しています。
スウェーデン方面へのフェリーのようです。
そろそろ昼食の時間。
どこかフィンランド料理のレストランに入ろうかと思っていたのですが、あまり時間がないのと、港の岸壁近くに店を出している海鮮料理のテントが賑わっていたので、そこに入ることにしました。
こんな感じのサーモンの鉄板焼き、ポテト添えをいただきます。
もちろんビールも一緒…。
ちかくのお店に「フィンランディア」と書かれていますが、たぶんフィンランドさんウオツカですかね。
さらに、路面電車に乗って、こちらへやってきました。
映画になった「かもめ食堂」(の撮影地)です。
実は旅行出発前にレンタルビデオ店で借りて見ました。
残念ながら日曜日のためお休みでした。
そのかもめ食堂近くの停留所からまた路面電車に乗ります。
こちらは日本でも人気のフィンランドのブランド、マリメッコのお店です。
(自分用のお土産を購入。)
ヘルシンキ中央駅近くの屋台。
ベリー類や豆などを売っているようです。
(つづく)
北欧デザインとヘルシンキ大聖堂と【2015欧州3カ国旅行記(30)】 [旅行・乗り物]
「フィンランドの国民的作曲家のモニュメントへ【2015欧州3カ国旅行記(29)】」から続きます。
シベリウス公園のあとは、ヘルシンキの中心街に戻ります。
いろいろ路面電車に乗っているうちにフリーマーケットらしき催しを見つけたので行ってみます。
いろいろ北欧らしい可愛いデザインの品々を売ってましたが、購入は思いとどまりました。
会場の片隅で弦楽器のデュエット。
さらに電車で繁華街にやってきました。
こんな感じの落ち着いた街並みです。
フィンランドを代表するお店が並んでいます。
食器などを扱うアーリッカというお店。
こちらはカレワラ宝石店。
「カレワラ」はフィンランドの叙事詩で、シベリウスの作品にも同名の曲があります。
フィンランドで最も有名という女性服飾デザイナー、マリヤ・クルキのお店。
北京に住んでいたころ、このデザイナーのネクタイを大量に持ってました。
日本でも愛用する人が多いイッタラ(食器など)。
こちらはアイノという名前のフィンラド料理店。
アイノはシベリウスの夫人の名前でしたっけ…。
そしてこちらはヘルシンキのシンボル、ヘルシンキ大聖堂。
いい天気で青空に白い建物が映えます。
大統領官邸には兵士の姿が。
こちらはロシア正教の教会、ウスペンスキー寺院です。
(つづく)
シベリウス公園のあとは、ヘルシンキの中心街に戻ります。
いろいろ路面電車に乗っているうちにフリーマーケットらしき催しを見つけたので行ってみます。
いろいろ北欧らしい可愛いデザインの品々を売ってましたが、購入は思いとどまりました。
会場の片隅で弦楽器のデュエット。
さらに電車で繁華街にやってきました。
こんな感じの落ち着いた街並みです。
フィンランドを代表するお店が並んでいます。
食器などを扱うアーリッカというお店。
こちらはカレワラ宝石店。
「カレワラ」はフィンランドの叙事詩で、シベリウスの作品にも同名の曲があります。
フィンランドで最も有名という女性服飾デザイナー、マリヤ・クルキのお店。
北京に住んでいたころ、このデザイナーのネクタイを大量に持ってました。
日本でも愛用する人が多いイッタラ(食器など)。
こちらはアイノという名前のフィンラド料理店。
アイノはシベリウスの夫人の名前でしたっけ…。
そしてこちらはヘルシンキのシンボル、ヘルシンキ大聖堂。
いい天気で青空に白い建物が映えます。
大統領官邸には兵士の姿が。
こちらはロシア正教の教会、ウスペンスキー寺院です。
(つづく)